授業をおもしろくする工夫というのには結構やばいものも多いので、つまらなくてもよいという側面もある。つまらなくても、先生が嫌いでも、履修前より知識レベルが上がっていればいいだけだ。おもしろ授業がいいとか、満足する授業がいいとか、そういう心理主義的な評価は間違えていると思う。
— 中西大輔 (@daihiko) 2022年9月15日
この方のツイートが先日からぼんやりと考えていたこととつながっていて興味深いなと思いました。
授業を面白くしすぎない方がいいのではないか、ということを、最近考えていた。
私は日本語教師をしているのだが、今受けている研修がある。
先日はICT化についての研修だったのだが、
そこで雑談が多くて学生に考えさせるような授業の先生はオンラインではあまり受けがよくなくて、一方的に講義するような知識教授型の授業の先生の方がオンラインでは受けがいいという話を聞いた。
なんとなく、いい先生というと、講義型より話術に長けて雑談が多くて学生を持ち上げたりするのが上手でやる気をださせるような、学生に慕われる人というイメージがあった。
しかし、その研修を受けてから、いい教師に対する少しイメージが変わった。
何も話術に長けているとか、学生参加型の思考させる教師だけが優れた教師というわけではないのだ。
そのあとこの中西さんのツイートを読んで、教師はサービス業といわれるが、もしかするとサービスしすぎもよくないのかもしれないと思った。
わかりやすすぎる授業というのは総じて残らない。あまり学生のところに降りていきすぎて、学生に教えたことが入ってなければ本末転倒だ。
きれいなパワポを作るとか、流れるように淀みなく講義するとか、そういうのを追求してしまいがちだが、それは誰のためにするものなのだろうか。
それが自分のためだけになってしまってはあまり意味がないのではないだろうか。
どういう効果を与えたいか、そこが重要で、授業はそれに向かって組み立てるものではないのだろうか。
きれいなパワポも細かなテクもそれを補う手段にすぎなくて、本末転倒になってはいけない。
それを思うと、ライターも同じではと思った。
こういう言い方をすると偉そうだと思われるかもしれないが、その文章が読者へのサービスが目的になってはいけない。
読者へのサービスとは読みやすさ、面白さ、見せ方、写真、長さ、記事以外でのSNS等でのふるまいなどいろいろある。
それをなぜやるのかが対象の姿を正しく伝えることにつながるのであればいいのだが、
読者への人気取りになってしまうとよくないのではないかと思う。
ときどき読みやすすぎる文章はどうなのかと思うことがある。
例えば新聞や週刊誌の文章などはひっかかりなく一読で文意がとれるように書いてある。
内容だけでなく、定型句やゴロ合わせなどで、気持ちよく読めるように書かれている。
以前『三行で撃つ』を読んだときに、文章はグルーヴが大事みたいなことを書いてあって、そうなんだろうけど、そうかな?と思ったことがあった。
そのひっかかりは、気持ちよさでするする読んじゃう文章って、本当に読めてるのかな?という疑いだ。
グルーヴのある文章はそのときは文章のうねりに飲み込まれてまれてするする読めるんだけど、案外残ってないことも多いんじゃないのかと思ったのだ。
話術がうまくて、サービス精神旺盛で学生を巻き込めるのはうまい授業だと思う。
でも、それで学生が何かを学べるのかは別なのと同じように
文章もグルーヴがあって、読者への目端が効きすぎているからいい文章というわけではないのではないかと思った。
ちょっと不器用な先生の授業を覚えていたりするように、ひっかかりとか癖とかぎこちなさが残る文章を意外といつまでも覚えていたりする。
だから、なんていうか、過剰サービスを授業にも文章にも込めなくていいのではないかと思った。
そう思うと、ライターとしてのふるまいも教師としてのふるまいも似ている部分がある。学生へのサービスをするからいい教師というわけではないのと同じように、読者へのサービスをするからいいライターというわけではない。
学生に残る授業や対象の姿を正しく伝えるためには、実はあまり学生や読者サービスの方によらない方がいいのではないか。
ちょっとまだうまく言えないのだが、そういうようなことを思った。