先日大阪大学COデザインセンターが開催する「となりの〈Zine=人〉文学」
というトークイベントに出ました。
これは大阪大学で行われている2つの文章に関する授業の中で作られたZINEを展示し、
作者による朗読会や、Zineやクリエイティヴ・ライティングの可能性を考えるイベントです。
わたしが登壇したのは、3月20日の「クリエイティブ・ライティングのススメ」
帝塚山大学で授業でクリエイティブ・ライティングを実践されている谷美奈さんと、
クリエイティヴ・ライティングとはどんな経験で、どんな意味があるのか、それを大学教育のなかで教育実践として行う意味についてお話ししました。
わたしはZINE作りのワークショップをしたり、ZINEを作ったりしている実践者として、自分の経験についてお話しました。
こちらはそのトークイベントで話したことの再録です。
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1、公開することへのハードルの高さ
若い頃から文章を書きたい、それを仕事にしたいという気持ちがありました。
文章を仕事にする場合、小説家や作家になることと、ライターや新聞記者といった人のことを客観的に書くことが考えられます。
まず会社員としてライターや新聞記者を目指そうと思いました。
でも、就職活動がうまくいかず、結果的にフリーランスとして活動することになりました。
ライターになるにあたってよく言われるのは「ライターになりたいなら名刺を作って、ブログに書きたい分野の記事をあげて、メディアに売り込めばいい」ということです。
でも、わたしにはそれがなかなかできませんでした。
それは、公開することにハードルがあったからです。
自分の中で完結するからこそ「書く」ことができます。
しかし、いったん自分の中で終わっていることを外に出すと、反応が来ます。
その際に、自分の書いていることが間違っているのではないか、そもそも視点が間違っているのではないか、など批判されることで自分の足りなさが見える怖さがありました。
なので、個人的に匿名でブログをやったり、mixiのようなクローズドな場で書くことはできても、「不特定多数の人に公開する」のはハードルが高くて、公開の場で書くことも、なかなか自分はものを書いている人間だと言うこともできませんでした。
2、公開へのハードルをどう乗り越えるか
・人に見てもらうこと
では、公開へのハードルをどうやって乗り越えればいいのでしょうか。
ライターや新聞記者だと、いきなり公開ということはなくて、原稿に編集者やデスクの手が入ります。その際に切り口や書き込みの甘さ、誤字脱字が指摘されます。
そのことで足りない部分に気づいて、それを補うことでやっと人に見せられるものになっていきます。
つまり、人に見てもらうことで自分の足りない部分を知るのです。
ただし、その相手は誰でもいいわけではありません。
内容をわかってくれる、ちゃんと文章が読めるといった能力を信頼できる人、人間性を信頼できる人であることが重要です。
なぜなら書き手というのは、常に本当に読んでくれる人がいるのかという自信のなさに苛まれています。
悪意のある批評によって、書き手の自信をへし折ることは簡単です。
なので、最初人に見せるときは、文章を読む能力や内容を理解する能力を信頼でき、人間的にも信頼できる、この人の意見だったら聞ける、という人に見てもらうことが肝要です。
・推敲
もう一つ大切なのが、推敲することです。
推敲というのは、自分の文章を他人の目をもって客観的に見直すことです。
一人にならなければ書けません。そのときは、どんなにいびつでも、歪んでいても、論理が破綻していても、辻褄が合わなくてもいいから、とにかく自分の思いや考えを吐き出すことが大事です。
しかし、それでは人に読んでもらえません。
そこで、「こうした方がわかりやすいし、読みやすいのではないか」、「この言葉は人を傷つけるのではないか」といった他人の目から自分の原稿を見直す必要が出てきます。
こうやって人の目を通じて自分の足りない部分を補うことによって、だんだん自分の文章を人に見せられるレベルまでもっていくことができます。
そうすると、ここまでやったからそこまで批判はないだろうと確証がもてるし、自分の考えていることや調べたことにも自信が持て、公開することへのハードルを乗り越えられるようになります。
3、書き手の有限性を知る
・読者と書き手の非対称性
そうやって公開できるようになると、今度は自分の文章の読者ができてきます。
では、書き手は読者とどのように向き合えばいいのでしょうか。
以前ある小説家の方のインタビューをしたときに印象に残った言葉があります。
書き手には限界がある
その方がおっしゃっていたのは、読者と書き手は非対称性があるということでした。
読者にとって本は無限にあって、飽きたら違う本を読めばいいし、いくらでも足りないと言えるということ。読者にとって読むものの代わりはいくらでもある。
でも、書き手には限界があります。
その人の経験や知識から文章を書かねばいけない。その範囲でしか書けない存在だということでした。
しかし、読者にとっての代わりはいくらでもいるといっても、権力があるのは書き手の方です。
自分の視点で書いて、発表できる書き手の方が権力を持っています。
読者と書き手というのは、そのような二重の非対称性を持った関係なのです。
・読者の感想とどう対峙するか
ところで、公開したものには感想はつきものです。
近年はSNSや本の感想を載せられるサービス、書評ブログなどが増え、以前よりも簡単に読者と書き手がつながれるようになりました。
読者の感想を以前より目にする機会が増えてきた時代です。
わたしは最初は読者の感想には応えなければいけないと思っていました。
たとえば、批判があればそれは自分の改善点で改めるべきだと思っていたのです。
しかし、読者と書き手は非対称な関係である以上、その批判がその非対称性を意識した上でなされたものかも考えて受け取った方がいいと思うようになり、以前よりも感想に対して距離をもって受け取るようになりました。
その読者を満足させられなかったのはわたしの責任ではないかと気に病んでいたこともありましたが、読者と書き手の間に非対称性がある以上、それはどうしても起こることだと思うようになりました。
その読者を満足させられなかったからといって、必ずしも書き手に能力がないわけではないのです。
読者の感想は書き手を励ますこともあれば、筆を折らせることもできる諸刃の剣です。
感想が書きやすく、また書き手にも見つけやすくなった時代において、必要以上に感想を探したり感想について思いめぐらしたりすることは、書き手にとって書くことの妨げになることもあるのではないかと思うようになりました。だから、わたしの文章が合わない人もいると、必要以上に深く捉えることはやめるようにしました。
4、書き手になるという覚悟
ものを書くことは一人でできます。
しかし、楽しみのために好きに文章を書くことや、誰にも見せないところに自分の思いを綴ることと、それを読者のいる場所に公開して書き手になるということはまったく別のことです。
書き手になるには覚悟がいります。
書き手が有限であることを自覚しつつ、それでも書くという覚悟です。
書き手の権力性を自覚し、その責任を引き受けるという覚悟です。
その覚悟ができて、人は書き手という自覚を持つことができるのではないでしょうか。
そして、読者がいてはじめて書き手になれるのです。
書き手であるということは、書くことを職業にしているとか、有名だとか、それでお金を稼いでいるといったこととは別です。
また、趣味で好きに文章を書いていますというのも違うと思います。
その覚悟をもって読者の前に書いたものを公開している人を書き手というのではないでしょうか。
そして、書き手であるということは、職業選択の問題だけでなく生き方の問題でもあるということなのです。
「『書き手』の立場で文章を読者に公開する」ことは「趣味として楽しく文章を書く」「自分の得意なことや好きなことを書く」「好きなものを好きなように書く」ということとは全然別の生き方なのです。
文章を書いて公開することは楽しいだけではなく、辛いこともつきまといます。
それでも書き手の側に立つのは、辛い方を選ぶということです。
わたしにとって、この覚悟を持つことがなかなか大変でした。
それでも、わたしは今後書き手として生きていきたいです。