何年か前、このようなブログを書いたことがあった。
この文章を書いた当時はライターはインターネットでバズってなんぼ、というような価値観に対して、カルチャーショックがあり、自分もそのようなライターにならなければいけないのではないか、と悩んでいた。
バズるには「エモさ」が必要で、その「エモさ」をどうやって出せばいいのかわらず、試行錯誤していた。
しかし、結局わたしは「エモい」文体で書くことができず、そういう方向性を諦めた。
近頃、バズりやエモさで評価されてきたライターや媒体が方向転換したり、炎上している例を見るにつけ、ライターにしても作家にしても、無理にバズってネットの話題にならなくていいのではないかと考えるようになってきた。
さまざまな炎上の事例を見てきて思ったのが、むしろちゃんとした記事だからバズらないこともあるのではないかということだ。
なぜなら「バズり」は、文章の中にあるなんらかの過剰さや違和感によって起きる現象ではないかと思うからだ。
過剰さや違和感というのは、取材対象や自身の体験、テーマ、文体だけでなく、
文章の上手い下手、テーマと文体が合ってない、切り取り方が差別的であるといったことも含まれるだろう。
普通記事というのは、内容以外のことではなかなか話題にならない。
しかしバズってそれ以外の部分が話題になるというのは、文章ではなく、違う部分に注目が集まっているということだ。
内容以外のことに注目されてバズるのは、ライターにとってあまり名誉なことではないのではないだろうか。
同じ勝負するなら文章と内容で勝負したい。ちゃんと読まれた上で、それを話題にしてほしい。
以前は自分もバズらなければと焦っていたが、無理にネットで話題になる必要はないと考えるようになった。