夜学舎

「書く」にまつわる日記

書くことと特権

この間、ライターのマサキチトセさんのこの記事を読んだ。



現代思想』という雑誌の2020年10月臨時増刊号「ブラック・ライヴズ・マター」特集で掲載された記事だそうだ。

文章の中では、ブラック・ライヴズ・マター(BLM)特集なのにブラック・トランス・ライヴズ・マター(BTLM)や当事者の記事がないことについての疑問や、自分がその原稿を引き受けていいのかという逡巡、編集部とのやりとりが誠実に書かれていた。

正直言うと、わたしは最初読んだときにもやっとした。

わたしは今年で独立して10年くらい経つが、その間になんとか自分なりに業界で場所を獲得し、いくつか定期的に書かせてもらえる場所を作った。それを特権と言われるのが、自分の努力が否定されているような気がしたのだ。しかも、それでもらえる原稿料だってたかが知れている。それに、当事者じゃない人がいろんな人に取材してジャーナリズム的に書くことが現実にいい風に働くこともあるのに、という気持ちもあった。


そういうふうに最初は反発の気持ちが起こったけど、落ち着いて何度か読んでそうじゃないと気づいた。

マサキさんは文章で、自分の中で書くことのモヤモヤを抱き、自分に本当にBLMやBTLMについて書く資格があるのかと問いかける。そして誰もいないなら誰かが書く必要がある。しかしそれは暴力性を帯びることもあるという逡巡の中で自分が書くことを選ぶ。マサキさんは、「書くことの暴力性」について悩んでいたのだと気づいた。
この記事はただ特権を批判するんじゃなくて、書くことは暴力性を帯びるかもしれなくても、書く場所を与えられた者はそこに場所を得られなかった人に対して責任があるから、その責任をちゃんと自覚してものを書かないといけないということを書いているのではないかと思った。

・・・

話は変わるけど、毎週聞いている「山下道ラジオ」というラジオがある。

note.com


これは、途中でやめるという服のブランドをやっている山下陽光さんとアーティストの下道基行さんがやっているネットラジオ番組だ。

この82回で、いろんな国の若者に「18歳以上は大人だと思うか」というアンケートをしたら、日本が一番「大人だと思う人」の割合が少なかった結果が出たという記事を取り上げていた。

ラジオで、山下さんは、自分たちは美大とか専門学校とか出てブラブラして何もしなくても生きていけたけど、それが自分たちの既得権益だったと認めないといけないという話をしていた。

山下さんは今まではむしろ自分は氷河期世代で「おれたちはなんももらってねーし」と思っていたそうだ。けど、そうじゃなくて、そう言いながら何もしてこなかったから今こんな世の中になったんじゃないかと言っていた。

これを聞いてはっとした。
わたし、もう「持っている側」なんだ!

わたしはもうすぐ40代だけど、ラジオを聞いて、若い人から見たら既得権益を持っている立場になっていることに気づいてショックだった。
この既得権益というのは、マサキさんのブログにあった「特権」と同じものだと思う。

・・・

わたしは今まで、ライターとして自分が「持ってない側」だと思っていた。

何をもって自分が持ってない側だと判断するかという基準はいろいろあると思うけど、
今までわたしが持っている側と思っていた人というのは、

  • 新聞のオピニオン欄に意見を書けるような識者
  • 文芸誌で巻頭特集で取り上げられる評論家や小説家
  • 印税だけで暮らせる人
  • 有名な雑誌や出版社出身で業界で名が知られている人
  • カルチャー誌に顔出しで登場するようなタレントっぽい書き手

などなど。
要は影響力がある人のことだった。

わたしはそういう人と比べたら影響力はないから、自分のことを「持ってない側」だと思っていた。
だけど山下さんの意見を聞いてから、

  • 自分が企画提案したときに聞いてもらえる立場にあること
  • 10年くらいやっているという活動歴
  • 1冊でも著作があること

そういうのトータルに見て、上に挙げた人たちには及ばないけど、自分は「持ってる側」なんだと気づいた。

・・・

でも実際の自分は、「持っている側」なのにマインドだけ「持ってない側」だった。
実績あるのに、マインドだけまだナイーブな20代後半から30代前半のままで、「もっとよこせ」と言っている。
それって、はたからはすごいチグハグに見える。
「もっとよこせ」は、それくらいの年頃だったら、ちょっと生意気だけどやる気があるとみなされるけど、この年でまだやってたらやたら食ってかかってくるとっつきにくくて感じの悪いヤバイ人だ。

じゃあ、「持ってる側」なんだから、不満があっても今の状況に感謝してもう求めないとか、もう持ってるから持ってない人に全部譲るとかすればいいのか。
でもわたしはこれでお金を稼いでいるから、そういうことは困る。
じゃあどういう感じでこれから書けばいいんだろう。

これまで自分が表に出たい目立ちたい、ちやほやされたい気持ちがなきにしもあらずだったし、書いたら「見て見て〜」という感じもあったけど、40代でそれだけでやってたらきついなと思った。

もちろんそういう気持ちが書く原動力になるし、それが全部悪いとは思わないけど、ただ「見て見て〜」だけじゃなくて、「持っている側」が書く文章の「効果」をもっと考えないといけないと気づいた。

・・・

「持っている側」が書く文章の「効果」について考えるときに、『ヘイトをとめるレッスン』という本のことを思い出した。
このあいだこの訳者のたなともこさんと相沙希子さんにインタビューをしたけど、そのときにもらった、この本の版元のころからという出版社の木瀬さんの言葉を思い出す。

wezz-y.com

 

マジョリティというのは多くの問題において何を言われても意見として受け止められる特権性がある。差別する意図がなかったとしても、それが差別の効果を生んでいるのであれば、その意図よりも効果を問われるべき。


そこで考えるのが、ツイッターデモのことだ。
わたしは去年、コロナでツイッターでのハッシュタグデモや政権批判にどちらかいうと否定的だった。
自分の方がしんどいのにという気分が大きかったし、一つの言い方で一つの主張をするというやり方に全体主義的なものを感じて、なんか嫌だった。

けど友人に、ハッシュタグデモはフォロワーが少ないとか、自分の考えをうまく140字で主張できない人にとっては、自分の意見をのべる機会だと教えてもらった。
また、事件の被害者や名前を出して主張がしにくい人にとっても有効な手段になる。

一方、わたしは別にツイッターじゃなくても記事で主張したいことがあれば名前を出して主張できる。
そこでやっと自分が特権を持っているということがどういうことなのか理解できた。

もしそういう特権を抜きに、わたしがツイッターデモする人ばかり批判してしまえば、自分のはいているゲタを見ないで一方的にツイッターデモを疑問視する声を広めることになってどうしても言いたいことのある人の口を閉じさせたり、そういうデモをする人にいやがらせするアカウントを助長するかもしれない。

・・・

では今後、自分が「特権があるんですね」と批判されたらどうすればいいのだろう。
それまでのわたしだったら「わたしなんか特権なんかないし」とか「もっといっぱい持ってる人批判すればいいのに」と言い返しただろう。
でも、たぶんその言い方はよくない。

あと、「特権があるんですね」と言われてそれをただ「ラッキーだった」とヘラヘラしたり、「私なんてたまたま」みたいに謙遜しすぎるのもなんか違う。
逆に特権を得るために「こんなにやったんだから当然」とか、「実力からしたらこれくらい特権あって当たり前」みたいに開き直るのも違う。

一番いいのは、「何か書きたいことがあるんですか」みたいに、相手が何を言いたいか聞くことだろう。
たぶんその人には何か書きたいことがあるのに、お前みたいなのがなんでその場にいるんだという気持ちがあって、そういう発言をすると思うからだ。
だから自分がその場で書けてるっていうのは、そういう批判と表裏一体のものなのかもしれないと思った。

結局できることは、自分に書く場が得られたらそれに感謝しつつ、書けなかった人もいるかもと気にかけながら、精一杯そこで書けるものを書くことだけだ。
そしてその書いたものの効果は多分自分が思っているより大きいから、それにちゃんと責任を持てるものを書くしかない。
それが、公の場で名前を出してお金をもらって書くという特権にあずかれた人が果たす責任だと思う。


 
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