夜学舎

太田明日香の本を出すレーベルです

気合と根性さようなら

先日の記事のように、最近やる気をなくしているので今年はあんまり積極的に仕事してない。

 

yagakusha.hatenablog.com

 


去年はしんどいくせに、気合と根性って言いながら、
ちょっと無理するくらいで仕事してた。

へとへとだったけど、なんだかんだ言って自分は気合と根性が好きなんだなと思った。
でも、気合と根性そのものが好きって言うより、
地獄のミサワ』みたいに
「『気合と根性』って言ってる自分が好き」みたいなところがあった。
そこまで考えて、それってがんばってる自分に酔ってるみたいで
気持ち悪いなと思った。
気合と根性の逆はゆるくやろうとか、力を抜いてのびのびみたいな方向だけど、
それもわざとらしいから普通にやろうと思った。


気合と根性は、スリルがあって、ドーパミン出て仕事やってる感味わえていい。
けど、それずっとやってたら病気になってしまう。
ゆるく力を抜いてやってたら、そもそもやる気が出なくて仕事終わんないし。
それで平常運転目指すんやけど、平常運転って平坦やから、
淡々としてローテーションみたいになって
平坦さに自分が耐えられなくなりそうな気がする。

自分の中で仕事=気合と根性になってて、
平坦だと仕事してる感でなくて、それが耐えられなさの原因なんだと思うけど、
気合と根性ないと仕事終わらないのが異常事態なのに、
気合と根性=仕事になるといつか潰れそう。
だから平坦さに慣れて、気合と根性って言わなくても仕事できるようにしたい。

シン・エヴァでも「毎日は同じでいいの」って言ってたし、
普通にやるのが今年下半期の目標。






「好きなことを仕事に」とはどういうことか

よく考えたら今年の1月でフリーになって10年経った。
本当だったらめでたいはずだけど、去年から編集の仕事に全然やる気が出ない。
本を作るのは時間と体力がかかる。
それをフリーでやってたら、全生活を仕事に投入する感じになる。
それにコロナが重なっていろいろ疲れてしまった。

やる気が出ない理由の一つが、本を作るのが好きかわからなくなったことだ。
前は内容はどんなものでも、ゲラを見るだけで楽しかったのに、
去年はゲラを見るのが苦痛で、仕事が楽しいと思えなくて辛かった。
「仕事が楽しいものじゃない」とか、「仕事が辛いものだ」という意見とか、
「仕事というのは苦しいことに耐えてお金をもらうものだ」みたいな意見がある。
そういうのと別に、前は編集はわたしにとって仕事だけど、
それとは別に「ものを作っている」みたいな矜恃があって、
それがあったから安かったり長時間労働だったり直しが多くても平気だった。
だから「本を作るの楽しい」とか、「本はお金じゃない」とか思えた。
でも、最近そういう意見を見るとイライラするようになった。

「好きなことを仕事に」っていう言葉がある。
わたしはその言葉を真に受けてたから、
好きなことを仕事にしたのに、どうして楽しくないんだろうと思ってた。
でも好きなことを仕事にしたから辛くなったんだと思う。
仕事には2種類あって、お金のためじゃない手仕事とか、
生活に必要な服とか焼き物を作るとか、
一生かけてやる研究のようなお金をもらわないけど
自分にとってはやる意義のあることという意味での「仕事」と、
お金のために我慢して労働力を売る「労働」とがある。
キャリア支援とかでこの言葉が使われるときの意味は、
本当は「好きなことを労働に」なんだと思う。
好きなことだったら我慢の度合いが低くなるから、
「労働するなら好きなことの方がいいですよ」ってことなんだと思う。
10年の間に、わたしの中でいつの間にかいろんなバランスが崩れて、
自分の中で本を作ることが「仕事」から「労働」になっていって、
それが辛かったんだと思う。

本を作るのに、長時間労働とか、直しが多いとか、スケジュールの調整とか、
変更が多いとか、理不尽なことを言われるとか、いろいろあっても、
本ができると思ったら平気だった。
それが世の中に出て、誰かの役に立つと思えるから平気だった。
でも、業界とかSNSとか見てると、本は一冊一冊が一つの世界で、
それぞれ比較するものじゃないのに、
比較して競争してみたいな感じになる。
そしたら自分のやってることが「世界に資する崇高な仕事」みたいな感じから
「労働」に引き下げられる感じがする。
それとフリーでやってるとすぐ「売り上げ何円」て考えてしまうから、
どんなにいい内容とか役に立つ本でも、
「こんながんばっても結局○○円か」と思ってしまう。

好きなことを仕事にするのはロマンがある。
でも好きなことを仕事にしたから楽しいかといったら、
そういうわけではないと思う。
好きなことを仕事にするとは別の形で、お金をもらう方法を確保しておいて、
好きなことを好きなままで置いておくような余地を残しておかないと、
好きなことが労働になって、好きじゃなくなってしまうことがある。
そうじゃないと辛くて、好きなことが嫌になってしまう。

今ちょっと休んで、お金に関係なく本を読んでたら
また少し好きという気持ちが戻ってきたからよかった。
今後はもう少し仕事の仕方を考えたい。

書き手になること

f:id:kokeshiwabuki:20210321101055j:plain

先日大阪大学COデザインセンターが開催する「となりの〈Zine=人〉文学」
というトークイベントに出ました。

これは大阪大学で行われている2つの文章に関する授業の中で作られたZINEを展示し、
作者による朗読会や、Zineやクリエイティヴ・ライティングの可能性を考えるイベントです。

www.cscd.osaka-u.ac.jp


わたしが登壇したのは、3月20日「クリエイティブ・ライティングのススメ」

帝塚山大学で授業でクリエイティブ・ライティングを実践されている谷美奈さんと、
クリエイティヴ・ライティングとはどんな経験で、どんな意味があるのか、それを大学教育のなかで教育実践として行う意味についてお話ししました。
わたしはZINE作りのワークショップをしたり、ZINEを作ったりしている実践者として、自分の経験についてお話しました。

こちらはそのトークイベントで話したことの再録です。

・・・・


1、公開することへのハードルの高さ

若い頃から文章を書きたい、それを仕事にしたいという気持ちがありました。
文章を仕事にする場合、小説家や作家になることと、ライターや新聞記者といった人のことを客観的に書くことが考えられます。
まず会社員としてライターや新聞記者を目指そうと思いました。
でも、就職活動がうまくいかず、結果的にフリーランスとして活動することになりました。

ライターになるにあたってよく言われるのは「ライターになりたいなら名刺を作って、ブログに書きたい分野の記事をあげて、メディアに売り込めばいい」ということです。
でも、わたしにはそれがなかなかできませんでした。

それは、公開することにハードルがあったからです。
自分の中で完結するからこそ「書く」ことができます。
しかし、いったん自分の中で終わっていることを外に出すと、反応が来ます。
その際に、自分の書いていることが間違っているのではないか、そもそも視点が間違っているのではないか、など批判されることで自分の足りなさが見える怖さがありました。
なので、個人的に匿名でブログをやったり、mixiのようなクローズドな場で書くことはできても、「不特定多数の人に公開する」のはハードルが高くて、公開の場で書くことも、なかなか自分はものを書いている人間だと言うこともできませんでした。


2、公開へのハードルをどう乗り越えるか

・人に見てもらうこと
では、公開へのハードルをどうやって乗り越えればいいのでしょうか。
ライターや新聞記者だと、いきなり公開ということはなくて、原稿に編集者やデスクの手が入ります。その際に切り口や書き込みの甘さ、誤字脱字が指摘されます。
そのことで足りない部分に気づいて、それを補うことでやっと人に見せられるものになっていきます。
つまり、人に見てもらうことで自分の足りない部分を知るのです。
ただし、その相手は誰でもいいわけではありません。
内容をわかってくれる、ちゃんと文章が読めるといった能力を信頼できる人人間性を信頼できる人であることが重要です。
なぜなら書き手というのは、常に本当に読んでくれる人がいるのかという自信のなさに苛まれています。
悪意のある批評によって、書き手の自信をへし折ることは簡単です。
なので、最初人に見せるときは、文章を読む能力や内容を理解する能力を信頼でき、人間的にも信頼できる、この人の意見だったら聞ける、という人に見てもらうことが肝要です。

・推敲
もう一つ大切なのが、推敲することです。
推敲というのは、自分の文章を他人の目をもって客観的に見直すことです。
一人にならなければ書けません。そのときは、どんなにいびつでも、歪んでいても、論理が破綻していても、辻褄が合わなくてもいいから、とにかく自分の思いや考えを吐き出すことが大事です。
しかし、それでは人に読んでもらえません。
そこで、「こうした方がわかりやすいし、読みやすいのではないか」、「この言葉は人を傷つけるのではないか」といった他人の目から自分の原稿を見直す必要が出てきます。
こうやって人の目を通じて自分の足りない部分を補うことによって、だんだん自分の文章を人に見せられるレベルまでもっていくことができます。
そうすると、ここまでやったからそこまで批判はないだろうと確証がもてるし、自分の考えていることや調べたことにも自信が持て、公開することへのハードルを乗り越えられるようになります。


3、書き手の有限性を知る

・読者と書き手の非対称性

そうやって公開できるようになると、今度は自分の文章の読者ができてきます。
では、書き手は読者とどのように向き合えばいいのでしょうか。
以前ある小説家の方のインタビューをしたときに印象に残った言葉があります。

書き手には限界がある

 
その方がおっしゃっていたのは、読者と書き手は非対称性があるということでした。
読者にとって本は無限にあって、飽きたら違う本を読めばいいし、いくらでも足りないと言えるということ。読者にとって読むものの代わりはいくらでもある。
でも、書き手には限界があります。
その人の経験や知識から文章を書かねばいけない。その範囲でしか書けない存在だということでした。

しかし、読者にとっての代わりはいくらでもいるといっても、権力があるのは書き手の方です。
自分の視点で書いて、発表できる書き手の方が権力を持っています。
読者と書き手というのは、そのような二重の非対称性を持った関係なのです。

・読者の感想とどう対峙するか
ところで、公開したものには感想はつきものです。
近年はSNSや本の感想を載せられるサービス、書評ブログなどが増え、以前よりも簡単に読者と書き手がつながれるようになりました。
読者の感想を以前より目にする機会が増えてきた時代です。
わたしは最初は読者の感想には応えなければいけないと思っていました。
たとえば、批判があればそれは自分の改善点で改めるべきだと思っていたのです。
しかし、読者と書き手は非対称な関係である以上、その批判がその非対称性を意識した上でなされたものかも考えて受け取った方がいいと思うようになり、以前よりも感想に対して距離をもって受け取るようになりました。
その読者を満足させられなかったのはわたしの責任ではないかと気に病んでいたこともありましたが、読者と書き手の間に非対称性がある以上、それはどうしても起こることだと思うようになりました。
その読者を満足させられなかったからといって、必ずしも書き手に能力がないわけではないのです。

読者の感想は書き手を励ますこともあれば、筆を折らせることもできる諸刃の剣です。
感想が書きやすく、また書き手にも見つけやすくなった時代において、必要以上に感想を探したり感想について思いめぐらしたりすることは、書き手にとって書くことの妨げになることもあるのではないかと思うようになりました。だから、わたしの文章が合わない人もいると、必要以上に深く捉えることはやめるようにしました。


4、書き手になるという覚悟

ものを書くことは一人でできます。
しかし、楽しみのために好きに文章を書くことや、誰にも見せないところに自分の思いを綴ることと、それを読者のいる場所に公開して書き手になるということはまったく別のことです。

書き手になるには覚悟がいります。
書き手が有限であることを自覚しつつ、それでも書くという覚悟です。
書き手の権力性を自覚し、その責任を引き受けるという覚悟です。
その覚悟ができて、人は書き手という自覚を持つことができるのではないでしょうか。
そして、読者がいてはじめて書き手になれるのです。

書き手であるということは、書くことを職業にしているとか、有名だとか、それでお金を稼いでいるといったこととは別です。
また、趣味で好きに文章を書いていますというのも違うと思います。
その覚悟をもって読者の前に書いたものを公開している人を書き手というのではないでしょうか。

そして、書き手であるということは、職業選択の問題だけでなく生き方の問題でもあるということなのです。
「『書き手』の立場で文章を読者に公開する」ことは「趣味として楽しく文章を書く」「自分の得意なことや好きなことを書く」「好きなものを好きなように書く」ということとは全然別の生き方なのです。

文章を書いて公開することは楽しいだけではなく、辛いこともつきまといます。
それでも書き手の側に立つのは、辛い方を選ぶということです。

わたしにとって、この覚悟を持つことがなかなか大変でした。
それでも、わたしは今後書き手として生きていきたいです。





日記ブームについての考察 その2

前回は今日記がブームという話を書いた。

今回は自分の日記遍歴を振り返りながら、どうやったら日記が続くかについて書いてみたい。

yagakusha.hatenablog.com

私の日記遍歴

私は日記をつけたいと思いながら、大学生までは紙の日記を続けようとしては続かないということを繰り返していた。
それがインターネットでつけるようになると続くようになった。

・〜2005年頃 ネット日記の読者時代
最初にネットで日記をつけるという文化を知ったのは、いろんな個人店のHPに載っていた店主の日記だ。
1990年代から2000年代始め、古民家を改装してカフェや雑貨店にするというようなブームがあって、わたしはそういうお店をめぐるのが趣味だった。
そういうお店の多くは店主の思いや個性を大事にしていたので、ホームページにも日記をあげている人が多かった。
そういうのを見てインターネットに日記を載せるという文化を知った。
当時私は完全に読者の立場で、自分の日記を公開なんて恥ずかしいと思っていた。

・2005〜2008年頃 mixi時代
そんなネットに自分の文章をあげることへの抵抗を取り払ってくれたのが、mixiだ。
当時は招待制で、誰かからの招待がないと使えなかった。
mixiは見る人が友達ばかりなので、気楽に書けるのがいい点だった。
不特定多数に見られるのは怖いけど、友達ならまあいいだろうと、1日の日記や読んだ本の感想を書くようになった。
一方で、mixiの出始めは実名で友達になるのも知り合いばかりだったのと、見たら足跡がついた。それで、いつも誰かとつながっている感じがして窮屈だなと思い始めていたところ、ある人と人間関係が壊れたのをきっかけに、いつまでも人間関係がつながっていることに嫌気がさしてやめてしまった。

・2006年〜2012年頃(〜現在) ブログ時代
同時期くらいにブログが登場した。
mixiがいやになった私は、その当時契約していたプロバイダが提供するブログサービスでブログを書き始めた。
周りの作家志望の人や、何か物づくりをしている人の多くはホームページを作って自分の作品を載せたり、日々の活動を発信していた。
わたしは当時出版社の契約社員で、編集者やライターになりたかったので、文章の練習にと思ってネットに文章を書いたりするようになった。内容は他愛もない日々の記録や思いやエッセイ、読んだ本の感想などだ。
しかし、引っ越したときにプロバイダを変えてしまったせいで、うっかり移転作業を忘れてしまい、ブログがなくなってしまった。
そして、しばらくあまりネットに自分から何かを書くというのはやらなくなった。
はてなを使い出したのは、2011年にフリーランスになったときだ。
はてなを選んだのは、当時わりとはてなで書いていて作家デビューする人が多かったからだ。当初はプレビュー数を気にせず、他愛もない日々の記録や思いやエッセイ、読んだ本の感想などを書いて淡々とやっていた。
ところが、ツイッター、ブロガー文化のようなものがあるのを知るうちに何を書いていいのかわからなくなった。ツイッターだと「バズり」が大事だし、ブロガーはアフィリエイトで稼ぐから内容は別にして数あげろという感じだった。
わたしはあまりどちらも求めていなかったけど、どうもそういうものがはやっているようだというのが耳に入ってくると、自分はどういうスタンスでブログを書いていいのかわからなくなってきた。
はてなは続けていたが、更新頻度はぐっと下がり、かなり力の入った文章しか掲載しないようになり、日々の思いやモヤモヤを吐き出す場所ではなくなった。

・2014〜2016年頃 タンブラー 時代
そんなとき出会ったのがタンブラー だった。

saruwakakun.com

タンブラー は、テキスト、イラスト、映像、写真、音声といろんなものがあげられるサイトで、好きなサイトを作っている人をフォローしたり、コメントをつけたりといった交流機能もある。ちょうど、課金できないnoteといった感じだ。
タンブラー が流行っていたのは、2013年くらいから16年くらいまで(今でもやっている人はいると思うけど)だと思う。
noteがリリースされて、タンブラー からnoteに移った書き手も多かったように思う。

タンブラー は静かなnoteという感じだった。
noteは毎日書くこととか、人にいいねとつけたりコメントをつけたりすることが推奨されているけど、タンブラー はそういうことは別にしてもしなくてもいいという感じ。
だから、淡々と好きな人のページをチェックしたり、淡々と自分の思いを書き綴るというのに便利だった。ただ静かすぎて読まれているという実感を得られない部分もあった。
noteはいいねがなくてもページビューがチェックできる。
だから、読まれているという実感を得やすい。
タンブラー からnoteに移った書き手が多かったのはそんなところも理由だろう。
わたしがタンブラー をやめたのは、2018年に書籍が出版社から出版されることになったからだった。
本の元になった文章も多かったので、ページ自体をとじることにした。


・2019〜2020 note時代
そして、わたしも他の書き手と同様、noteに書く場を移した。
しかし、やっぱり何を書いていいかわからなかった。
なんとなくnoteは書くこと以外を生業にしている人が、自分の仕事について書く場としては書きやすくていいと思うのだけど、書くことを生業にしている人にとっては、使い方が難しいメディアなのではないかと思ってしまう。
私にとっては「書きすぎてしまうこと」がネックだった。
書きやすいがために、いらないことまで書いてしまう、そのことであとで後悔したことが何度かあった。
コロナで鬱々していた時期はその気持ちを発散するのに使っていたが、
特にもう自分には必要がないかなと思ったので、いったんやめることにした。

note.com



note.com

note.com



note.com

 

note.com



ネットで日記を書くことへのモヤモヤ

・わがままな書き手
こうやって振り返ると、この15年ほど自分はいろんなプラットフォームを使って日記を書いてきた。
こんなにいろんなプラットフォームを転々としているのは、多分自分の中に矛盾している部分があるからだろう。
自分のためといいながら、誰かに読まれているという実感を得られないと続けられない。しかし、あまり頻繁にコメントをもらうとか、長文のコメントをもらうとか、常にいいねしあわないといけない場だと息苦しくなってくる。
また、読まれる範囲が実際の友達の範囲だけだと物足りなくなるし、オープンな場すぎるとちょっと怖い。
知り合い、知り合いじゃない問わず適度にクローズドな場で、適度に読まれているという実感が得られる場で書きたい。
わたしはとってもわがままな書き手なのだ。

・スクショ日記をインスタにあげる
そういう自分のわがままを満たしてくれるサービスが思いつかなかったので、編み出した方法があった。
ケータイのメモをスクショしてインスタのストーリーにあげるという方法だ。
見るのはインスタのフォロワー中心であり誰が見てくれたかわかること、
1日で消えるので公開範囲が限定されること、
ケータイのメモでスクショで撮れる程度の量しか書けないこと、
インスタのストーリーはすぐ消えて読むのが一瞬なので長いコメントは来ないこと、
などメリットが多かった。
今はもうやってないけど、これはとても続けやすかった。
日記が続かないと思っている人には是非やってみてほしい。

・LINEのオープンチャットへの期待
今可能性を感じるのはLINEのオープンチャットだ。
ラインにはmixiみたいに不特定多数の人がコミュニティーを作れる機能があって、
そこに参加すれば匿名で文章を書けるようになっている。
ZINE作家の伊藤さんがそこで日記を書くオープンチャットを運営している。


ある程度公開の場で書きたい、でもある程度クローズドな場がいい、ある程度見られたいけど、具体的な感想とかコメントはほしくない、といった日記をネットで書くことについてのモヤモヤの多くをクリアしている、非常に面白い試みだ。

・書き手と読み手が平等な場
このオープンチャットに参加して数ヶ月たつが、文章は淡々としていて日常を淡々と綴っているようなものが多い。だから人の日記や日常と自分をくらべたりすることが少ない。
noteもみんなが読んだり書いたりしながら育つコミュニティという感じはあるのだが、人の目を気にして「読ませよう」「面白がらせよう」といった文章が多い。
また、誰の日記が人気とか、誰かがバズるといった部分がある。
今思うとそこがちょっと辛かったのだと思う。
オープンチャットでは匿名性が担保された中で、ランキングもなく、みんな書き手でありみんな読者であるという平等に書いたり読んだりする場が作られている。
人に見られつつ人の目を気にしないでいいから続けやすい。

もしかしたら、日記に限らず、文章を書くことを続けられるポイントというものはそこにあるのかもしれない。
日記や文章を書くことが続かないと悩んでいる人は、ある程度人に見られつつ人の目を気にしないでいい場を、探すなり作るなりしてみるといいのではないだろうか。

日記ブームについての考察

日記がブーム

コロナ禍以降日記がブームになっているそうだ。

news.yahoo.co.jp

 

たしかに、ここに書かれている『仕事本 わたしたちの緊急事態日記』(左右社)以外にも、『コロナ禍日記』(タバブックス)、『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)等、コロナ以降日記の本が増えているようだ。
緊急事態宣言でうちにいて、他の人と会う機会が制限されたことで孤独を感じるようになったこと、その間に他の人はどんな生活を送っていたか、どんなことを考えているか知りたいという興味からこういう本が増えているんだろう。

しかしこの記事では日記帳に書くことのブームについては触れられていたが、ネットに書いたり出版したりするブームについては触れられていなかった。
そこで、それらも含めた日記ブームが現状どうなっているかについて書いてみたい。

 



日記ブームとnoteの影響

日記を読むことだけではなく、書くこともブームになっている。
特にインターネットではnoteの影響が大きかったのではないかと思う。
それまでさまざまなブログがあったけど、noteの一番画期的だと思うところは、
「noteの使い方、機能紹介」のページに


短い文章、下手な文章、ラクガキ...、そういったものを恐れて手をとめる必要はありません。まずは、創作したいこと・伝えたいことを世に送り出す。表現力もファンも、あとから十分ついてきます。


とあるように、未完成でも、下手でも、とにかく発信することと、続けることが重視されていることだろう。

例えばはてなでは、文章がうまい人の戦場という印象があり、そういうところに入るのにハードルの高さを感じた人も多かったのではないだろうか。
しかし、noteはその書くハードルを一気に下げたように思える。
さらに、noteは毎日書くことを推奨しているが、その際に日記を書く人がいちばん多いように感じる。それは、自分の日々の日常が一番書きやすいことだからだろう。
特に日記というのは、その人の生活が材料になるから誰一人として同じものはなく、その人の個性が一番出やすいため、書くことを始めた人にとって一番手軽に始められる。

ただ、一番難しいのも日記だ。
変わった生活を送っているとか、有名とか、文体や内容が面白いといった特徴がないと、なかなか読まれにくい。
また、文章と内容に人間性が出やすいから、リスクも大きい。
簡単に手を出せる一方で、公開するにあたってはプライバシーやものの言い方に気をつけないと炎上を招きかねない。
noteでは有料記事にできる機能により、そのリスクを回避できるようになった。
有料記事にすると一部表示になるので、書くモチベーションを保ちながら、炎上や批判のリスクを減らせる。
また、コメントやいいねといったフェイスブックに近い機能もあるから、承認欲求もある程度満たせる。そういったところが人気の理由ではないだろうか。

 


日記を出版することもブームに

書いて公開するだけでなく、日記を本にして売るということもブームになっているようだ。
文学フリマBOOTHといった手軽に本を売れる場やサービスも増えたことで、日記を本にして人に読んでもらうことが気軽にできるようになった。
書くこと、発信することのハードルだけでなく、出版することのハードルも下がったのだ。

さらには今年の5月には内沼晋太郎氏による月日屋という日記専門書店も登場している。これにより、日記を書いて、公開して、製本して流通できる流れができた。これにより日記本の出版はさらにブームが来るのではないだろうか。

tsukihi.jp

 

 

日記本ブームのこれから

そうすると、次は山ほどある日記本の中からおすすめを紹介するようなサービスができてくるのではないか。

文学フリマBOOTH
の日記は口コミで広まることが多いとが、評判になる前に売り切れて買い逃したりすることが多い。
日記本は作りやすい分、次々出版されてその中から掘り出しものを見つけるのも難しそうだ。
なので、選書サービスが必要とされそうだ。

 

もうしばらくはコロナは続くだろうし、人が書いているのを見ると、自分の執筆意欲も刺激される。

日記ブームはまだまだ続きそうだ。

HPができました

HPができました。

 

editota.com

 

今後はこちらにお知らせを書いていく予定です。

今まで読んでいただき、ありがとうございました。

過去記事については、こちらに置いておきますので、どうぞご覧下さい。

今後ともよろしくお願いします。

webshopはこちら→https://yagakusha.thebase.in/