夜学舎

太田明日香の本を出すレーベルです

夜学舎企画第二弾 『B面の歌を聞け』を出しました

2016年以来5年ぶりに夜学舎名義で本を出しました。

 
販売はこちらから 

『B面の歌を聞け』イベント出店&販売情報 - 夜学舎

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今回は、雑誌です。
タイトルは『B面の歌を聞け』

世の中の主流がA面ならその裏側はB面。
B面スピリットを忘れず消費社会をサバイブするためのヒントを提案します。

創刊号テーマは「服の自給を考える」。
B面的生活スタイルをつきつめると自給自足にいきつきますが、
衣食住の中でも服の自給がいちばん難しいのではないでしょうか。

自分でオリジナルブランドを作っている作家さんや
服に関する面白い実践をしている人たちの姿から服の自給について考えます。 


そして、ロゴは洋服ブランド途中でやめるの山下陽光さん!!
中は発行者の太田明日香がワードで作る手作り感あふれるデザイン。
印刷は京都のリソグラフ スタジオHand saw press kyoto
取材、執筆、編集は太田明日香

(体裁)
 40ページ、A5版、一部カラー刷り、中綴じ


(目次)
・B面の歌を聞け            太田明日香    
・リラックスしたまま自分を発揮できるチャイナシャツ
 ラララチャイナ 岡本ららさんインタビュー
            お話を聞いた人 岡本ららさん
・服の自給を考えるための10冊 その1
・日常でハレを感じさせてくれるシャツ
 谷のシャツ 谷みゆきさんインタビュー
            お話を聞いた人 谷みゆきさん
・服の自給を考えるための10冊 その2    
・失敗は味の元、とってもジューシー。味わおう。                   
               モリテツヤ/モリアキナ
・服の自給を考えるための10冊 その3
・編み物とリハビリ            太田明日香
・裁縫ルサンチマン             坂下喜子
服の自給を考えるための10冊 その4
服の自給を考えるための10冊 その5
・世界のA面と世界のB面は、どこかで繋がっている 
「B面の歌を聞け」へのアンサーソング 
                      澤村明亨
・服の自給 はじめの一歩 
         協力 「衣服のこれから探求ユニット」
              岩崎恵子さん、福原奈々さん
・奥付・次号予告

最新情報は随時こちらで更新中

夜学舎@zinezinezine2021出店中 (@yagakusha) | Twitter

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無理にネットの話題にならなくていい

何年か前、このようなブログを書いたことがあった。

note.com



この文章を書いた当時はライターはインターネットでバズってなんぼ、というような価値観に対して、カルチャーショックがあり、自分もそのようなライターにならなければいけないのではないか、と悩んでいた。

バズるには「エモさ」が必要で、その「エモさ」をどうやって出せばいいのかわらず、試行錯誤していた。
しかし、結局わたしは「エモい」文体で書くことができず、そういう方向性を諦めた。

近頃、バズりやエモさで評価されてきたライターや媒体が方向転換したり、炎上している例を見るにつけ、ライターにしても作家にしても、無理にバズってネットの話題にならなくていいのではないかと考えるようになってきた。

さまざまな炎上の事例を見てきて思ったのが、むしろちゃんとした記事だからバズらないこともあるのではないかということだ。


なぜなら「バズり」は、文章の中にあるなんらかの過剰さや違和感によって起きる現象ではないかと思うからだ。
過剰さや違和感というのは、取材対象や自身の体験、テーマ、文体だけでなく、
文章の上手い下手、テーマと文体が合ってない、切り取り方が差別的であるといったことも含まれるだろう。

普通記事というのは、内容以外のことではなかなか話題にならない。
しかしバズってそれ以外の部分が話題になるというのは、文章ではなく、違う部分に注目が集まっているということだ。
内容以外のことに注目されてバズるのは、ライターにとってあまり名誉なことではないのではないだろうか。

同じ勝負するなら文章と内容で勝負したい。ちゃんと読まれた上で、それを話題にしてほしい。


以前は自分もバズらなければと焦っていたが、無理にネットで話題になる必要はないと考えるようになった。

 

別に「楽しさ」で仕事してもよくない?

10年くらい前にミシマ社のサイトでやっていた、
ライターの堀香織さんの「セラピスト1年生」というエッセイがある。

note.com

この連載は、2009年に38歳で急に大手出版社の業務委託契約を切られた堀さんが、マッサージのセラピストとして就職しようとした体験を書いたエッセイだ。

正直、連載当時に読んでいたときは、堀さんの生き方がすごく行き当たりばったりに見えて、38にもなって甘いんじゃないかとか、ちょっとイライラしながら読んでいた。
堀さんがフラフラしてるように見えたのは、多分世代差だと思う。
堀さんは10歳くらい上だが、それくらいの年代の人はまだ出版界が景気がよくて、
お金のいい仕事とか大きい仕事とかやってた世代だから、そういう感じでも生きていけたんだと思う。

それで、わたしは39歳になって、もう一回読んでみたらそんなにイラっとしなかったし、モヤッとしなかった。むしろ、その年から仕事と向き合う様子にグッときた。
語り口が深刻じゃないだけで、思ったよりお気楽な文章じゃなかったし、仕事が減ってきた危機感とか、人生これから何しようみたいな不安とかもちゃんと書かれていた。
この語り口が深刻じゃない感じが、自分が最初に読んだ30代のはじめには余裕に見えて、全然切羽詰まってなさそうに見えてイライラしたんだと思う。

読み返そうと思ったのは、堀さんが勤めていた店の店長に言われたセリフがずっと気になっていたからだ。
堀さんは業務委託契約を切られて、ライターや編集者をしながら、自分が趣味でやっていたマッサージを仕事にしようと、学校に行って働き始める。
ところが、結局本業のライターと編集者の仕事の両立がうまくいかなくなり、結局そのとき勤めていた店をやめることになる。
やめることを伝えたときに、その店の店長にこう言われる。

「ホリさんは自らを『こういう人間です』と自分を限定しているみたいで、それは結局世界が狭いし、成長がないと思う」
「ライターという仕事の何が魅力か? という問いに、書くことが純粋に楽しいという言葉が出たのは、私は悲しいです。仕事の意義は、個人の楽しみではなく、社会にどう貢献しているかという観点であってほしい」
 彼女の仕事に対する姿勢は素直に素晴らしいと思う。ただ、私はそういうふうには生きられないというだけだ。残念なことに。

 

わたしはこれを10年くらい前に読んだときは、店長と同じ気持ちだった。
なんか、本とか文章は社会をよくするために書いたり作ったりするもので、ライターとか編集者は裏方にいて、楽しいとかは二の次で、著者とかインタビュイーを立てて、陰になって働くものだと思っていた。
だから、堀さんが仕事をする理由の最初に「書くことが純粋に楽しい」が出てくるのに対して、なんとなくモヤッとしたのだった。

ところが、わたしは、特にここ1年か2年くらい、仕事に行き詰まっている。
編集の仕事は前は大好きだったのに、最近は全然面白くない。
原稿もらって読んでるときは楽しいけど、それ以外のプレッシャーが半端なさすぎて、
楽しいって思える部分がすごく少ない。
締め切りに間に合わしたりするとドーパミンが出て達成感が出てくるけど、それは吊り橋効果みたいなもんで、それに夢中になってその時間を味わっている「楽しい」という感覚とはちょっと違う。

じゃあ書くのはどうかと聞かれたら、それは辛いのと楽しいのと半々くらい。
取材は楽しいけど、書くのは結構大変だし、出たあとの反応も怖くて、プレッシャーも感じる。だから、それは純粋な「楽しい」とはちょっと違う。
結局仕事で、「楽しい」と「苦しい」とか「辛い」を考えると、2対8くらいの割合。
性格なのか、書く対象なのか、載せる媒体なのか、なんなのかわからないけど、わたしは堀さんの文章を読んで、自分はあんまり仕事が「好き」だけど、「楽しめて」はなかったんだなと思った。


今、わたしも堀さんと同じように、もう一つ仕事をしているけど、
そっちの仕事は天職とまではいかないけど、自分に向いてると思うし、割と楽しい。
でも同じ業界の人で堀さんの店長みたいに「楽しさ」だけじゃダメだと言う人もいる。

けど、最近そうかな? とか思ってきた。

別に「楽しさ」で仕事してもよくない?

例えばマッサージで堀さんがお客様を喜ばせられたり、読者とかインタビュイーとか出版社の人を喜ばせられて、それで記事もうまいこと仕上がって、堀さんも楽しいなら、オールハッピーで最高やし、それの何があかんのやろ?と思った。

思ったというか、思えるようになった。
というのも、結局自分は「辛いのが仕事」、「辛いからこそ仕事」みたいな考えに毒されて、それに苦しめられてきたような気がするからだ。


仕事にはいろんな側面がある。けど、なぜか「社会に貢献」とか「社会に役に立つ」だけが前面に出てくる。
でも人間だし、いっつも「役に立ってうれしい」「社会に貢献したい」と思って仕事してるわけじゃない。

金のためって思ったり、
能力が活かせて楽しいって思ったり、
一緒に働く人とかお客さんが面白いって思ったり、
だるいって思ったり、
いろいろ思いながらやっている。

その中には多少楽しいからやってるって気持ちもある。
なのに、それは仕事で思っちゃダメみたいになる。
か、逆に思い切り楽しまなきゃ損みたいになる。
そうなるのは、「仕事で楽しんだらダメ!」あるいは、「仕事だからこそ楽しまなきゃ!」という考え方があるからじゃないのか。
それは、仕事がほかの人間の活動よりも一段高いものとして扱われているからじゃないだろうか。

だから、「人間誰しも天職があって」とか「自分を活かして仕事しないといけない」感じになる。
そのせいで、向いてようが向いてなかろうが働かないと食べていけないから、それでお金もらえるならなんでもやったらいいはずなのに、それじゃダメな感じがする。
仕事にいろんな意味がくっついて、その意味の中で「社会に貢献」だけが大きな顔してる感じがする。
それで、仕事にくっついた意味の「金が欲しい」とか「楽しい」とかは原始的な欲求みたいにされて、「社会で仕事を通じて自己実現すること」が、さも世間の常識みたいになっている。
でも、みんなそんなふうに生きられるわけじゃない。

仕事なんか人間の活動の一部だ。
仕事以外に世の中に楽しいことも社会貢献できることも成長できることも山ほどある。
だから仕事と楽しいことや社会貢献や成長できることは一回切り離した方がいい。
そして、仕事と楽しいことや社会貢献や成長できることを切り離した上で、それでも仕事が楽しいとか、仕事で社会貢献したいとか仕事で成長したいなら、仕事を通じてやったらいいんじゃないか。

それをわざわざ、「仕事で成長すべき」とか、「仕事で社会貢献すべき」ってなるほうが、枠がちっちゃく視野が狭くなるような気がする。
仕事は成長とか社会貢献とか楽しいの目的じゃなくて、数ある社会貢献できることや成長できることや楽しいことのうちの手段の一つでしかない。

なんていうか、あんまり仕事に意味をつけたくない。
昔『働きマン』っていう、週刊誌の編集部を舞台にした漫画の主人公の編集者の女性が、
「あたしは仕事したなーって思って死にたい」って言ってた。

alu.jp



わたしはそうやって生きた方がいいんかなとか、編集者とかライターだったらそういう感じでやってった方がいいかなとか無意識に思ってたけど、やっぱそういうの、もういいや。

わたしは、「楽しかったらラッキー」くらいのノリで、もっと仕事と淡々と付き合いたい。


 

  


書くことと特権

この間、ライターのマサキチトセさんのこの記事を読んだ。



現代思想』という雑誌の2020年10月臨時増刊号「ブラック・ライヴズ・マター」特集で掲載された記事だそうだ。

文章の中では、ブラック・ライヴズ・マター(BLM)特集なのにブラック・トランス・ライヴズ・マター(BTLM)や当事者の記事がないことについての疑問や、自分がその原稿を引き受けていいのかという逡巡、編集部とのやりとりが誠実に書かれていた。

正直言うと、わたしは最初読んだときにもやっとした。

わたしは今年で独立して10年くらい経つが、その間になんとか自分なりに業界で場所を獲得し、いくつか定期的に書かせてもらえる場所を作った。それを特権と言われるのが、自分の努力が否定されているような気がしたのだ。しかも、それでもらえる原稿料だってたかが知れている。それに、当事者じゃない人がいろんな人に取材してジャーナリズム的に書くことが現実にいい風に働くこともあるのに、という気持ちもあった。


そういうふうに最初は反発の気持ちが起こったけど、落ち着いて何度か読んでそうじゃないと気づいた。

マサキさんは文章で、自分の中で書くことのモヤモヤを抱き、自分に本当にBLMやBTLMについて書く資格があるのかと問いかける。そして誰もいないなら誰かが書く必要がある。しかしそれは暴力性を帯びることもあるという逡巡の中で自分が書くことを選ぶ。マサキさんは、「書くことの暴力性」について悩んでいたのだと気づいた。
この記事はただ特権を批判するんじゃなくて、書くことは暴力性を帯びるかもしれなくても、書く場所を与えられた者はそこに場所を得られなかった人に対して責任があるから、その責任をちゃんと自覚してものを書かないといけないということを書いているのではないかと思った。

・・・

話は変わるけど、毎週聞いている「山下道ラジオ」というラジオがある。

note.com


これは、途中でやめるという服のブランドをやっている山下陽光さんとアーティストの下道基行さんがやっているネットラジオ番組だ。

この82回で、いろんな国の若者に「18歳以上は大人だと思うか」というアンケートをしたら、日本が一番「大人だと思う人」の割合が少なかった結果が出たという記事を取り上げていた。

ラジオで、山下さんは、自分たちは美大とか専門学校とか出てブラブラして何もしなくても生きていけたけど、それが自分たちの既得権益だったと認めないといけないという話をしていた。

山下さんは今まではむしろ自分は氷河期世代で「おれたちはなんももらってねーし」と思っていたそうだ。けど、そうじゃなくて、そう言いながら何もしてこなかったから今こんな世の中になったんじゃないかと言っていた。

これを聞いてはっとした。
わたし、もう「持っている側」なんだ!

わたしはもうすぐ40代だけど、ラジオを聞いて、若い人から見たら既得権益を持っている立場になっていることに気づいてショックだった。
この既得権益というのは、マサキさんのブログにあった「特権」と同じものだと思う。

・・・

わたしは今まで、ライターとして自分が「持ってない側」だと思っていた。

何をもって自分が持ってない側だと判断するかという基準はいろいろあると思うけど、
今までわたしが持っている側と思っていた人というのは、

  • 新聞のオピニオン欄に意見を書けるような識者
  • 文芸誌で巻頭特集で取り上げられる評論家や小説家
  • 印税だけで暮らせる人
  • 有名な雑誌や出版社出身で業界で名が知られている人
  • カルチャー誌に顔出しで登場するようなタレントっぽい書き手

などなど。
要は影響力がある人のことだった。

わたしはそういう人と比べたら影響力はないから、自分のことを「持ってない側」だと思っていた。
だけど山下さんの意見を聞いてから、

  • 自分が企画提案したときに聞いてもらえる立場にあること
  • 10年くらいやっているという活動歴
  • 1冊でも著作があること

そういうのトータルに見て、上に挙げた人たちには及ばないけど、自分は「持ってる側」なんだと気づいた。

・・・

でも実際の自分は、「持っている側」なのにマインドだけ「持ってない側」だった。
実績あるのに、マインドだけまだナイーブな20代後半から30代前半のままで、「もっとよこせ」と言っている。
それって、はたからはすごいチグハグに見える。
「もっとよこせ」は、それくらいの年頃だったら、ちょっと生意気だけどやる気があるとみなされるけど、この年でまだやってたらやたら食ってかかってくるとっつきにくくて感じの悪いヤバイ人だ。

じゃあ、「持ってる側」なんだから、不満があっても今の状況に感謝してもう求めないとか、もう持ってるから持ってない人に全部譲るとかすればいいのか。
でもわたしはこれでお金を稼いでいるから、そういうことは困る。
じゃあどういう感じでこれから書けばいいんだろう。

これまで自分が表に出たい目立ちたい、ちやほやされたい気持ちがなきにしもあらずだったし、書いたら「見て見て〜」という感じもあったけど、40代でそれだけでやってたらきついなと思った。

もちろんそういう気持ちが書く原動力になるし、それが全部悪いとは思わないけど、ただ「見て見て〜」だけじゃなくて、「持っている側」が書く文章の「効果」をもっと考えないといけないと気づいた。

・・・

「持っている側」が書く文章の「効果」について考えるときに、『ヘイトをとめるレッスン』という本のことを思い出した。
このあいだこの訳者のたなともこさんと相沙希子さんにインタビューをしたけど、そのときにもらった、この本の版元のころからという出版社の木瀬さんの言葉を思い出す。

wezz-y.com

 

マジョリティというのは多くの問題において何を言われても意見として受け止められる特権性がある。差別する意図がなかったとしても、それが差別の効果を生んでいるのであれば、その意図よりも効果を問われるべき。


そこで考えるのが、ツイッターデモのことだ。
わたしは去年、コロナでツイッターでのハッシュタグデモや政権批判にどちらかいうと否定的だった。
自分の方がしんどいのにという気分が大きかったし、一つの言い方で一つの主張をするというやり方に全体主義的なものを感じて、なんか嫌だった。

けど友人に、ハッシュタグデモはフォロワーが少ないとか、自分の考えをうまく140字で主張できない人にとっては、自分の意見をのべる機会だと教えてもらった。
また、事件の被害者や名前を出して主張がしにくい人にとっても有効な手段になる。

一方、わたしは別にツイッターじゃなくても記事で主張したいことがあれば名前を出して主張できる。
そこでやっと自分が特権を持っているということがどういうことなのか理解できた。

もしそういう特権を抜きに、わたしがツイッターデモする人ばかり批判してしまえば、自分のはいているゲタを見ないで一方的にツイッターデモを疑問視する声を広めることになってどうしても言いたいことのある人の口を閉じさせたり、そういうデモをする人にいやがらせするアカウントを助長するかもしれない。

・・・

では今後、自分が「特権があるんですね」と批判されたらどうすればいいのだろう。
それまでのわたしだったら「わたしなんか特権なんかないし」とか「もっといっぱい持ってる人批判すればいいのに」と言い返しただろう。
でも、たぶんその言い方はよくない。

あと、「特権があるんですね」と言われてそれをただ「ラッキーだった」とヘラヘラしたり、「私なんてたまたま」みたいに謙遜しすぎるのもなんか違う。
逆に特権を得るために「こんなにやったんだから当然」とか、「実力からしたらこれくらい特権あって当たり前」みたいに開き直るのも違う。

一番いいのは、「何か書きたいことがあるんですか」みたいに、相手が何を言いたいか聞くことだろう。
たぶんその人には何か書きたいことがあるのに、お前みたいなのがなんでその場にいるんだという気持ちがあって、そういう発言をすると思うからだ。
だから自分がその場で書けてるっていうのは、そういう批判と表裏一体のものなのかもしれないと思った。

結局できることは、自分に書く場が得られたらそれに感謝しつつ、書けなかった人もいるかもと気にかけながら、精一杯そこで書けるものを書くことだけだ。
そしてその書いたものの効果は多分自分が思っているより大きいから、それにちゃんと責任を持てるものを書くしかない。
それが、公の場で名前を出してお金をもらって書くという特権にあずかれた人が果たす責任だと思う。


 
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